+Raindrops in my eyes+ |
「今、何と言ったんだね」 京極堂は読んでいる本から顔も上げずにいった。 私は一度言った言葉を繰り返すのが面倒で、黙って窓の外を眺めていた。 何も考えてはいなかった。ただ、喉の奥からひとりでに出た言葉だった。 窓の外は、春先の何時止むとも知れぬだらしない雨が降っている。 あの日とは違う柔らかな雨はそれでもやはり水の一つの形で、ゆっくりと私を湿らせていく。お陰で、少 しだけ呼吸がし易くなった。 晴れよりも、私を受け入れてくれるような曇った空は、頭の中に掛かる霞と同じ色をしている。 もう何度目なのか自分でも判らない。 あまりにも続くので、これが欝なのかそうでないのか違いが付かなくなっている。波のように引いては 襲い掛かる無力感が私を苛んでいた。何もかもが自分から果てしなく遠く、相当に億劫な事ばかりに 思えて仕方が無い。 いっそ、生きていても死んでいても変わらない、そんな事はもうどうでも良かったが、死ぬにはそれなり の手段を講じ、実行しなければならず、それが途方も無く面倒なだけ、と言うどうしようもない状態だっ た。 「関口君」 強く、名を呼ばれて私の意識は少し現実へ顔を出す。 口がひとりでに動いた。多分ずっと、深層意識で私はそう思っていたのだ。 長い間。若しかしたら、出会った時からかも知れない。 「死にたくなったら、君の手で殺してくれないか」 「断る」 京極堂は即答した。視線を移せば片眉を上げた顔がこちらを向いている。 「関口君、君は僕を犯罪者にしたいのかね。殺人と言うのはそれはそれは重い罪だよ。懲役だ。下手を すると死刑に為るかもしれない。そんな目に遭わせたいと君は言うんだね。恐ろしい。そんな友達甲斐 のない男だとは思わなかったよ。ああ、最初から君とは友達では無かったか」 立て板に水とはこの事か、と捲し立てられて私は閉口する。昔から私はこの男に勝てた例し等何一つ 無かった。 友達では無い、と京極堂は言う。友達で無ければ私は何なんだろうか。 とても頼りない場所に一人、居るような気分になる。 「関口君」 気付くと直ぐ目の前に顔があった。 「君がそれを望んだとしても、君が僕を置いていく事は許さないよ」 「………」 顎を取られ、逸らそうとする視線を無理矢理合わせながら、京極堂は良く通る声で、きっぱりといった。 「たとえ誰が許したとしても、決して僕は許さない」 「……横暴じゃないか」 とっさに、返せた事を自分でも奇蹟だと思う。多分一瞬だけ、私の欝は何処かへ消えていた。 「どうとでもいい給え」 じっと、私の目を見詰めながら京極堂はいう。少しだけ、楽しそうな声色だった。 しかし、その瞳が酷く真剣で、私は恐ろしくなる。こんな矮小な自分には到底、相応しく無いと心底思う からだ。 なのに逃げ出す事も出来ない。 ふと、京極堂の目が細くなった。 「巽」 一瞬、それが自分の名前だと判らなくなる。呼ばれた事も久し振りだったが。 それだけでなく、呼んだ相手がこの男だと言うだけで。 「……何だよ、急に」 「呼んでみてはいけないのかね」 京極堂の顔が距離を詰めて来たので、私は肘をついて後ろへ身体を倒そうとしたが、顎を掴んでいる 手が思いの外強くてかなわなかった。 「無駄口が利けないようにしてやるから覚悟するんだね」 「え」 そのまま、荒っぽく口唇を貪られて畳へ押し倒された。圧し掛かる相手の重みと、熱に何も判らなくなっ てしまう。 いつも、この男と肌を合わせるのは唐突だった。こんな風に。 私を狼狽えさせたままで。 頬へ触れる冷たい、肌掛けの感触に意識が浮上する。 私は何も身に纏っていなかったのに、京極堂の着物には乱れ一つ無かった。一体何があったのか、自 分でも判らなくなる程ストイックな顔をする。 「どうしたね」 「……いや」 身体中が軋んで、熱ぼったくて眩暈が続いていた。顔を覗きこんで来た京極堂に髪をくしゃりと掴まれ て、視線を上げる。 「誰も、帰って来やしないよ」 それが何を指すのか京極堂は言わなかったけれど、私には判った。夏に、秋に、冬に、春に、見送った 人達の顔が、頭の隅を過ぎる。 「……ああ」 誰も。 待っていても仕方無いのだ。息をしている以上、否応無しに時間は流れて、自分達は前へ進まなけれ ばならない。 京極堂は脇に座ると、器用に一冊の和綴じと灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。マッチの炎が消さ れ、淡い色の煙を目で追っていると、静かな声がいう。 「お互い、守るものが増えすぎたね。関口君、君はもう少し慎重になり給え」 「煩いな」 諭されるような言葉に、私はつい反抗的に返してしまう。どうしても素直に受け入れられない時もあるの だ。 和綴じの頁を捲りながら、京極堂は構わずに続ける。 「君は死なない。誰にも殺されない」 少しだけ、間を空けていった。 「僕にもね」 同じだけ、私は黙って、そして答える。 「……ああ」 あの日、あの雨の日、開けてしまった自分の暗闇も、全部、何もかも。 この男は引き受けてくれそうに無い。 それは自分一人一人が背負っていく物なのだろう。 私は上掛けを引き寄せると、蛹の様に丸くなった。京極堂の意識はもう、手元の和綴じに移ってしまっ たらしい。 小さく欠伸をしたら外の景色が滲んで見えた。 水の中に居るように。 |
涼啓サイトにミスマッチな京極堂話。 涼啓をお書きになっている時の、嶋末さんの文体の優しさが、京極堂では鋭く鋭利なものに感じられました。 素敵なお話をありがとう御座いました(^^*) |